酒井独り言/曖昧さと娯楽『キャット・ピープル』『悪魔の呪い』『ドールハウス』

『キャット・ピープル』(1942,ジャック・ターナー)を久しぶりに見直した。DVDでなのだが。どうも今度3月鎌倉の川喜多映画記念館にて上映があるというチラシを見たので、ここ一年くらい折に触れ思い出していたので、家にある数少ないDVDの棚から引っ張り出して、見直したのだ。

そうそう、こんな感じ。というのと、こんな感じだったっけ?という驚きと、相まみれながら見たけれども、見終わった後、クライマックスでの精神科医が襲われるシーンにアンバランスさを感じた。というか、アンバランスにしきれなかったアンバランスさというか。この物語は妄想か怪奇かの淡いが狙いになっているのが明らかで、特に主人公の恋敵となる女性が追われる二つのシーンで、それが抜群に素晴らしい効果になっていて、何もない夜道や、スッとよぎる影がなんとも品のある今でも古びない不気味さですごいのだが、それはあくまでリアリズムの中で怪奇かどうかは曖昧になっているからだ。ただ、精神科医が襲われるこのシーンでは、陰による曖昧な襲われるカットのあと、わざわざ黒ヒョウのカットまで出てくるので、「あれ?」とかえって混乱する。そのカットは無い方が狙いとしても、すっきりすると思うのだが。

と思って見終えて、DVD特典の参考資料を見ていたら、どうも黒ヒョウカットは製作のヴァル・リュートンが後から入れるよう指示したらしい。なるほど。

同じくジャック・ターナーの『悪魔の呪い』(1957)は先日見ていたのだが、ここではもう少し踏み出していて、「悪魔」に追われるかなりカッコいいシーンが立て続けに起こる。これも悪魔のビジュアルを出さなくても、超強風とか気配とか偶然とか、ギリギリ曖昧で通用するところが、結構派手に、カッコいい悪魔(レイ・ハリーハウゼン作!)が出てくる。これもネットのウィキペディア情報によると、プロデューサーが悪魔のヴィジュアルを出すことに決めたようで、ジャック・ターナーの狙いは一貫しているのかもしれない。

個人的好みを抜けば、どっちが良い、どっちが悪い、という事でもなく、むしろさっき書いたように、はっきり見せているだけに余計に混乱する、という曖昧さを消そうとしてかえって曖昧になっているところもあり、それもたしかに魅力ではあるだろう。いろんな人の狙いによって、いびつなものが出来上がるのは映画ならではだろうし。
精神的な問題か、あるいは怪異かの曖昧さで押し通すことの品の良さか。
曖昧でない怪異を見せることのポップさか。


どちらでも良いとは思うが、この曖昧さ要素を入れて現代で娯楽として作ろうとしたとき、二つ問題がでてくるように思う。

①曖昧さは、勿体ぶったアート感に繋がりがちで、やはり一定の観客は飽きるし、現代の長編の尺で同じように「気配のみ」をやっているのもワンパターンになる。

➁かといって「曖昧さ」が不安をもたらすことは変わらず、途中ではっきりと怪異に振るにせよ、精神的問題にするにせよ、そこから以降は「あーあ」とシラケてダレる恐れがある

という2点だ。
つい最近『ドールハウス』(2025,矢口史靖)を見たけれども、同じような問題をどうしようかと工夫しているように見えた。結局、尺の問題にはなってくるのかもしれない。かつてのB級映画の60~70分台の尺であれば、ストーリーテリングと、面白さのバッティングが少なかったかもしれないものも、90分以上いや下手したら120分という現代でジャンル映画をやったときに、必須な展開だけでは足りず、アトラクション的に尺埋めせねば持たないという状況になりがちだ。そうすると、被害者を増やす、怪異を増やす、などしていくことになり、増やしたら増やしたで、曖昧なままでは飽きられるし、かといってハッキリ見せるのであればエスカレートが求められる。どちらかといえば、途中で思いっきり展開させ、もはや途中から違うジャンルの映画が始まる、というくらいに割り切ってしまう方が作り良いのかもしれない。難しいものだ。

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