リチャード・フライシャーとジョセフ・H・ルイスを特集しているシネマヴェーラ渋谷に通っている。
前に見た事あるものも無いものもある。
1940-50’sのB級映画は60分~80分台が多いので、特に好きな作品はその進みの速さ、そしてアッケなさが好きだ。変に謳いあげるわけではないあの「と、まあ、こんなことが起きました」というようなアッサリとした幕引き、そこに強く惹かれる。
『私の名前はジュリア・ロス』(1945,ジョセフ・H・ルイス)は、以前にも見たことはあったが、大分忘れていたり、部分的に思い出したりしつつ、全体としてはとても新鮮な鑑賞体験だった。
B級と言っても、セットもあるスタジオ時代の2本立て上映時の併映作品と、今の低予算本編とを比べることはできない。僕のように、プロではなく、趣味で映画を作る人間からすると、「安い」などという感覚よりむしろ「うわー豪華だなー」の感想が出てくるのは当然。セットも雨降らしも、エキストラ多数のショットも、美術ありきの撮影も到底できない。しかしながら、プログラムピクチャー時代に今のテレビ番組よろしく大量に作られていく時代に、技術的不自由も今とは段違いの中で、矢継ぎ早に低予算で作る創意工夫は、それはそれで相当のものがあっただろう。そう思ってみると、僕が自主や低予算を作ったことのある身として痛切に感じる、「何を削るか」「これって必要か」というシナリオ上の大きな問題を、同じように、いやそれ以上に重要に考えていたことは間違いない。セリフもフィルムに無駄な間が入ってたまるものかというほどに、非常に早口に聞こえる。ましてや、この展開のスピードで無駄なシーンが入る余地はない。脚本家は毎回違うので、あくまで勝手な印象で言うと、とくにルイス作品のいくつかにおいては、リアリズムで長くするくらいなら割と直球な説明台詞でチャッチャと進むことを選択しているように見える。(フライシャー作品は、その泥臭さとは反対に、むしろ説明せず、というか極力ドライな説明で展開を見せていくので、スタイリッシュさ、リアリズムを感じる)
原作は未読なので置いておいて、この『私の名前は~』を見ていると、
①「職を探して闇バイト応募したら眠らされる」→➁「遠くに拉致られて自分は精神不安な別人だということになっている」→③「なんとか脱出を試みる」という物語展開。
観客は主人公と同じく、この不条理に対して成り行きを見守る。
一方、例えばここから20年後に公開された『バニー・レークは行方不明』(1965,プレミンジャー)では行方不明となっている娘を探す母なのだが、この娘が最初から一度も画面に映らず、行方不明である。そのため、観客は主人公のこの母親の精神が不安定であり、周りの人間が言うように、娘が実在するのか妄想なのかと不安になっていく。
『ガス燈』(1947,ジョージ・キューカー)も主人公自身と同じく観客も主人公の精神的な問題か、客観的真実として事件が起きているのかを判断できない不安を感じさせるし、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968,ポランスキー)しかり、『ノイズ』(1999,ランド・ラヴィッチ)など、数多くの作品に今なお引き継がれる、ニューロティック(神経症的)スリラーとも言うべき大きな要素でもある。この要素の下支えとなっているのは⑴「(客観的できごとが)隠されている」という事、⑵映画で起こる出来事は客観的真実ではなく、主人公の主観や夢である可能性があるという映画ならではの前提、⑶主人公さえ信用できない物語があるという前提、に拠っているように思えるし、その⑴と⑵のバランスによって、より客観的(ドライ)か主観的な作風かという描き方のグラデーションも出てくる。
一般的によりドライなリアリズムのみで描き切れているほど、観客を主観を取り入れた故意に映像トリックで騙さないという点でスタイリッシュという見方が一般的だろう。とはいえ結局は「判断できる前提や描写を見せないよう省略している」のであり、それも広義の意味では同じく映像トリックなのだが、つまり能動的騙しより、省略的騙しのほうが、作為を見せない作為が単にスタイリッシュに見えるということである。つまり、「どこから描くか」だ。
⑶の部分としては『サイコ』(1960,ヒッチコック)も、主人公という立場を入れ替えるという意味でも変拍子的な実験に見える。
つい最近の『ストレンジ・ダーリン』(2024,JTモルナー)はタランティーノやノーランの初期作よろしく、時系列入れ替え系で、それによって被害者加害者関係が観客の中で変化するもので、ピエール・ルメートルの小説『その女、アレックス』を思い出したが、トリックの明かされてからもノリノリで楽しい映画だった。
余談に次ぐ余談だが、最近見た『霧の夜の戦慄』(1947,ローレンス・ハンティントン)という作品は、冒頭に犯罪心理学の講義から始まり、それが学者(医者)である彼自身の犯罪動機の説明となっていて、講義後に殺人を犯そうと試みるというヘンテコな流れで、しかもそれが一つの有機的な物語構造を作っているわけでもなく(といってもつまらないわけではなく、なかなか面白いけど)興味深かった。特に犯罪を決心するときの、ピアノを演奏する主人公はすごく良い。僕も前回作ったものはそういう超変なアンバランスな構造ものなので、スタイリッシュとは程遠く、観客も真面目に見ると腹が立つかもしれないが、いずれまあ気楽にトンデモ映画として楽しんでもらえたら嬉しいものだ。
もし、『私の名前は~』のストーリーを『バニー・レーク~』と同じように➁で目覚めたところから始めたなら、同じように主人公さえも危うく、不安なニューロティック・スリラーになったかもしれない。
しかし、『私の名前は~』はもっと泥臭く、古典的に、客観的事実を説明している。高尚な挑戦より、ポップで大衆向けのB級映画。この映画の冒頭は大雨のロンドンの街並みから始まる。無職で寄る辺の無い主人公の背中しか映らず、ずぶぬれになりながら家に向かっている。情景カットを除けば2カット目はポン寄りに近いカメラ位置でドアを開いて入る画。この2カット目が、雨降らし状態でのクレーンショットや、レンズの都合からか、何故か現代でよく見る、焦点の浅い不安定な画になっていてギョッとする。あれはなんなんだろうか。不思議と見終わるまで、この雨のイメージが脳裏にこびりついて、ラストの波打ち際という水にまで意識が引っ張られる。結局主人公には良い未来は無いだろう。生きるも地獄、だが死ぬよりはマシなのだ。悪役の親子も変で、バカバカしく、やっぱり古い屋敷には色々仕掛けがあるのが良いよね、と思う楽しい映画だった。
という、なんともまとめそうでまとめない、とりとめのない文章である

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