Blog酒井/今更のマイク・フラナガンのドラマ

酒井です。
特に告知はない中では初のブログ。
一週目で、先週は宮﨑君、今回僕、来週は百々君です。

何を書くかはその都度あまり決めずにやるつもりですが、今回は、ごく最近僕が面白いと思っていることについて、ひとりごとのように書きながら考えるんで、筋道ずれてくかも。くだらなくて長いだけ

まず、僕の最近のエンタメ趣味事情ですが、ここ2年ほどあまり映画館は行かなくなり、ここ数カ月は本当に映画は見なくなってきました。
大体劇場で見るのは、1月~2月に1本とかなのかな。(それでも平均よりだいぶ見ている方ですね)
映画館に行くっていうのは、案外習慣みたいなものであったらしく、行かなくなったらなったで、それが習慣になるから平気、という感じ。正直映画を観るのは好きか、と聞かれて、今は素直に「イエス」って感じじゃないです。「んー、まあ面白いのだったらね…」というくらい。

ところで、まず最近面白いと思って書こうかなって思ったのはマイク・フラナガンのチームのNetflixドラマ『真夜中のミサ』『ミッドナイト・クラブ』で。
こりゃまあ、どメジャーな作品群なわけで、「何を今さら…」なんですが。

マイク・フラナガンて、毎度ホラーと言いつつ、あんまりホラーに興味がなさそう。というか、ジャンルとしてのホラーではなく、「要素としてホラー入れてますけど、あっしはミステリーかヒューマンドラマがやりたいんでっせ。しかも場所を制限して展開させるのが得意でっせ」というのが勝手なイメージ。
僕も正直ジャンルとしてのホラーへの造詣は浅く、最近ホラーの脚本に関わることもあったけれども、ホラーってよくわかんない。特に面白ポイントが。
結論から言うと、個人的には本当の恐怖って、「ドラマの否定」である気もしていまして。
というのも、不条理、対応策がない、つまり立ち向かいようが無い、ということが本当の恐怖だと思っているからで、じゃあそれをドラマにするとなると、別ジャンルを走らせる必要があるってことなのかなと。
サスペンス、というのがジャンルではなく要素であるように、どうもホラーもそうなのでは、と思ってます。
例えば、「リング」も恐怖現象がまずあって、本編はそれを解き明かしていくミステリーになり、そして解決した、と思いきや…というクライマックス後のドラマの否定がオチであって、それがめっぽう怖い、そんな感じ。
真正直に恐怖現象自体を全体のドラマにしようとすると、それは恐怖というより「業」に近いものになっちゃう。四谷怪談とか。
やはりミステリーかコメディ、あるいは超常現象に立ち向かうファンタジーか、アクションといったものをベースに敷くことになるのでは。
純粋なホラーだけであれば、出来事だけの短編が合っているような気がします。

実際、僕が本当に恐怖を感じた映画って、「吸血蛾」(中川信夫)のラストシーンだったり、「ある秘密」(クロード・ミレール)だったり、ホラー映画ではない映画の一部分に強烈な恐怖や不安や緊張感を感じていたりするんです。
(逆にピカピカっと雷が鳴ったりするような怪奇映画には、ワクワクを感じて、楽しいという感情で好きです)

話を戻すと、僕の思う恐怖は避けようのない運命とかってことで、もっともリアルにあるのは「死」なんです。「死」がめっぽう怖い…。
「なんて当たり前な事を、超遠回りして書いてんだよ」って話です。
誰だってそうですよね。死。その先に「意識」も「記憶」も「自我」も何もない、「怖いと感じる」事さえない、「感じなかったよね」なんて言い合える未来も待っていない、「永遠の無」が本当に怖い…。
良い話っぽく言い換えれば、なんだかんだで、「生」が好きなのかもしれませんが。
(ところが、時には希死念慮もあるわけで、僕自身矛盾しているわけですが…)

で、その一番の恐怖の対象である「死」って物語にできないなって。
観客含めて、生き残った側から「あの人(キャラ)が死んだの怖かっただろうね」とは言えても、本当に意識を失くした側の主観的な感覚は、物語という「認識」「認知」では描けない。だって「認識が無い」ってことが恐怖なんだから。
死ぬ恐怖ってのは、物語とは矛盾する。でも死の恐怖を物語に落としたいし、できればこの恐怖から救われたい。(無理だけど…)

ようやく話が戻って。
ネットフリックスの『真夜中のミサ』『ミッドナイト・クラブ』って、群像劇のヒューマンドラマにホラー風味っていう要素を付け足しているんですが、これが死に関する物語なんです。
さっき書いた通り、当然それは死を主観的に描けないから、もう敗北決定の物語ではある。
でも、とっても感動しました。すごく良いです。なんか「真正面」な感じもして。

次に、この「真正面」ってなんだ?ってことなんですが、なんで僕が今そう書いたのかを自分でさかのぼってみます。

僕は最近あまり映画を観る気がしない、と冒頭に書きました。そして、いくつか見たり、作るのに関わったりしていくうちに、僕だけじゃない、みんながそうなってきているんじゃないかなと今は思っています。
映画というより、「物語って退屈だな」ってなってきている。
ここで、先日思いついて、どこかで披露してインテリぶりたかった僕の文明批評的格言をここに書かせてください!
「趣味人の娯楽は、エンターテインメントからアミューズメントに移行してきている」。
どうです?カッコいい格言でしょう。
頭良さそうなワードではないでしょうか。

これは何が言いたいかって言うと、「物語を一方的に受ける」ということに退屈を感じており、テキストとして物語の断片をつなぎ合わせる脱出ゲーム的、あるいは考察などの参加型ゲーム的方向に娯楽の志向が移ってきているのでは、ってことです。
ゲームはオープンワールド化しているし、あの陰謀論QアノンのブームだってQtuberと呼ばれる考察系youtuberの謎解き合戦がベースにあったようだし。
ネットを通じて意見を語り合えたりするということも、娯楽の重要な要素になってきた。
言い方を変えれば、「『作品』から『ネタ』へ」とも言えるかもしれない。
これまたかっこいいスローガンです。実にインテリっぽい。
これは僕は良い悪いというジャッジは無く、自分自身もまさにそうなんだろうと思っています。社会的な変化が、多くの人の趣味などに影響しているんだろうなと思ってます。

で、そうなってくると、「一方的な物語は退屈だ」ってことになってくる。
だけど、誰しも今でもいくつか刺さる作品てありますよね。それは、「物語への飽き」さえ超えてきちゃったやつなのかなと。

こうしてエンタメを見ると、「物語を描く」っていうので一番不便なのは実写映像で、だから実写映像は一番先に飽きられちゃうのかもなーって。
物語を捨てたアート映画(実際にはなかなか捨てられない)、社会問題の再現的訴求、更に過剰な視覚的アトラクション、と言ったものにはニッチな活路を見出せるかもしれない。
ただどれにしても、そもそも90分~120分という尺はいよいよ意味がなくなるのかも。
さてエンタメってどうしよう、って感じの時に、フラナガンは、もう時代錯誤な「物語至上主義」な感じなんです。

特徴的な演出は全然ない。あるっちゃあるんだけど、別に面白いわけではない。アート的な作家性とは程遠いような感じ。ホラー描写はいまいちだし。ハッとするワンカットがあるわけでもない。(そもそも『ミッドナイトクラブ』は監督してないで共同制作・共同脚本)
でも僕は刺さるんです。「物語一点突破」のタカ派。そして、それが死の物語だと。
ものすごく脚本がウェルメイドな気もするけど、すごーく長いモノローグ(一人語り)が多かったりして、ちょっと歪でユニークにも見える。すごいなー!と思います。
個性のひけらかしで勝負をしない、無骨なエンターテイナーのチームなのかなと、本当にかっこいい。

※こんな風に、よく、監督名や脚本家名がアイコンのように、出来上がりの功績に寄与したかのように批評されるが、実際にはもっと複雑で、個人名で役割を言い切ることはできない。スタッフ・キャスト・そのほか関係したすべてが複合的に作ったかと思います。

どちらのドラマも、1話~2話目くらいまでちょっと退屈で、半ばごろからワーッとくるので、まだ見てないからは、後半まで堪えたら乗れると思います。

特に『真夜中のミサ』は後半台詞が多くて、その吹替が良かったです。英語スピーカーじゃない人は、是非吹替で。
なんの話してたか忘れたけど、まあ結局色々書いたけど、全部僕の妄想かも。時間を無駄にさせました。気にしないで下さい。
ではでは。

酒井

真夜中のミサ | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
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