「シネフィル」という言葉がある。おそらく30代前半以前では死語だとは思うのだが、僕らの時代までは未だに時折聞く言葉だ。そして、シネフィルとは何かというと、今では単に「ものすごい映画マニア」ではない。
そこに、「凝り固まった」「(ある種の妄執的)映画好き」といったマイナスイメージが付与され、そして、「シネフィル」は大抵「シネフィル」を嫌っており、シネフィルであると言われた場合には、「如何に世間一般的なシネフィル的ではないか」を自己弁護せざるを得ない。
この話が、どうも昨今は「リベラル」にも当て嵌っているように見える。そこには「理想主義的軽薄」「ルールに厳しい」「怪しい正義を振りかざす」といったコノテーションが加わり、「リベラル」の要件は「リベラルを嫌っている事」にすらなりつつある。単に「リベラル」と見られぬよう、あえて反民主主義的主張をしてみたり、「世間一般のリベラル」との距離感を注尺的に表明せねばならない。そう、ちょうど「シネフィルはシネフィルを嫌い」なのと同じように。
実際にはシネフィルはシネフィルを嫌いではないし、リベラルはリベラルを嫌いなわけではない。ただ、そう言われることに侮蔑されたという感触があるからだ。これはすべての分類分けにそう言えるだろう。いかなる学問も分類分けによって発展してきたことは間違いない。アリストテレス以降歴史の発展も、科学、医学、現代の人類繁栄全てが分類分けという概念がベースとなって成り立っている。しかし、どうも僕らは自身が分類分けされることに非常に腹が立つ。そして、分類する側も、分類する対象を批判、いやもっと感情的に侮辱しようという意識、いや、分類する対象に対する優越意識というべきか、そういったものを抱えている。「いや、無いよ。単に事実に即して分析しているだけ」と言いたいことだろうが、それは単なる方便、包み紙である。
批評も全てがそうで、「こういった傾向」を分析しているように見せかけ、実は順序が逆で、分析が先にあるわけではなく、「こういった傾向」への攻撃欲求が良かれ悪しかれ先にある。
まさに今、この文章自体が「分類分けする人」という分類への、僕はある程度の批判意識と嗜虐性を持って書いているし、自分が読んでいたらこの文に反対したくなるだろうから、きっと確かな事だと思う
カテゴライズされるということは、個性を奪われ、傾向という「観察可能な顔のない群れ」として扱われ、個の人間として、大きな尊厳を傷つけられるように感じさせる。それが僕らの怒りの根幹ではないか。
とまあ最近はそう思ったりする。さて、話はトンで、そうするとジャンル映画とは一体なんだろうか。という疑問が湧いてくる。
むやみやたらと新しくできた活動写真を作っている時期から、ある程度の歴史ができ、批評が産まれ、ジャンルは「興業(宣伝)と観客のターゲットとしての活用」だけではなく、「制作者自身のアイデンティティ」にすらなってきた。
自ら、ジャンル映画をやっているのだ、という意識。歴史への敬意や、自分の愛する過去の作品への憧れ、思い入れもあるだろう。時にその意識が発想を枠に閉じ込め、また目が肥えたジャンル愛好家たちが、ジャンルとして正しいかといった本末転倒な批評や議論をすることもあるかもしれない。
しかし、アイデアについていえば、自由は自由ではない。枷が無いと何も生み出せないし、完全にオリジナルなものなどありえない。そもそも、考えるベースになっている言葉という概念自体がオリジナルとは言えない。不自由がアイデアの根源となる。
ジャンルにとらわれないものを作ろうとすると、そこには娯楽性を入れるのが難しく(じゃあ娯楽って何よ、というのはまた今後考えるとして)、それが入ったとして、案外同時代性というものには囚われてしまう。つまり、「現代社会あるある」や「人間関係あるある」という「あるある共感もの」という、一つのジャンル映画とも言える。
であれば、ジャンル映画の強味とはなんだろうか。そこには自嘲と開き直りがある、いやあって欲しいという欲求が。自ら没個性を受け入れ、枠の中を意識することで、かえってその中の個性や、そこからのはみ出しが強調されるのではという期待。そういった淡い期待を抱き、自意識を持たないというポーズの自意識にすがり、思春期のような照れ具合で、「発見」してもらいたがっている。そういうサモシイ人間。はい、それが私です、こんにちは。

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