キンキョー

このブログ、僕から始めようと言い始めて始めたはいいが、ここ1カ月書いていなかった。理由は、優先する事があるときに無理して書くこともないから。なんとものぐさな。しかし、こんなものは下らぬ壁の落書きと一緒なのだから許してもらおう。それもバンクシーではなく、○○上等という類の落書きだ。とりあえず、また書く。

あれ以降、モノローグをもう一本書き途中で一か月ほど放置している。別の事を優先でやっているうちに、心が離れているのだ。そのうち気まぐれにアップするかもしれないけど。

優先でやっていたのは、企画やシナリオを書いていたりしてたからだ。
僕の場合、とにかく安く撮れそうなものを書くことが求められるし、それは唯一の強みでもあるだろう。安く撮れるだろうもの。場所を最小に、登場人物を最小に。それはそれで難しく、毎度う~んと初めてものを書いているような心細さの中パソコンと向き合い、9割の時間は無駄に悩み、残り1割の時間で一気に書ききる。延々とそんな調子だ。最初から、「ダラダラ悩んでないで進みつつ考えれば良いじゃん」とも思えるだろうが、これがなかなかそうもいかない。どっちに向かって歩くか、という無限の選択肢の中でベターを見定める(諦める)のに、毎度悶々としちゃうのだ。進歩がないのだが、僕の場合どうしようもない。
……と、いっちょまえに「クリエイター」(通称:クリちゃん)みたいなこと書いてしまった。

余談だが、ここ最近はコーエン兄弟の作品ばかりを見直しており、これは彼らの中ではそこまで面白い方ではないけども『バートン・フィンク』がまさにそんな感じで、ウジウジと脚本家が言い訳と自問自答で時間を費やし、追い詰められて一晩で書き上げ、書き上げたら書き上げたで自信作で胸を張る感じのシーンがある。久々見て笑った。あんな感じかもしんないな。
勿論、あのコーエン兄弟に「わかる」というような自惚れ親近感を抱いているのではないが。それでも、まあ、あの滑稽な感じ、身に覚えがあり、よくわかるわけだ。長期間の無能感と、短期間の万能感を一人で行ったり来たりする感じ。客観的に見るとバカみたいな感じだ。

低予算ゆえに難しい、と愚痴りたいわけではなく、僕の場合、そういった枠が無ければ書くこともできないかもしれない。書いてみるとわかるのは、自由というほどの不自由もないということだ。つまり、枠というのは、我々クリちゃん気取りにとっては必要な言い訳である。といっても、「ある程度の」枠はだが。

ところが……困ったことに別の欲求もある。面白くしたい。というやつだ。つまらなくしたくない、という。これが本当に困った感情だ。
これさえ封じれば問題は無いのかもしれない。作業として、仕事として割り切り、極力安く撮れるものを書く。その場合は、特にどこでも良い場所で、特別な美術も衣装も必要としない場所で、二人の人物が向き合って会話している、というだけがベストだろうし、当然それだけで展開するべきだ。しかし、それがわかっていながらできない。やりたくない。できるだけ面白いものを書こう。人にうけるとか、そういう基準でなく、ちゃんと僕自身が面白いと思えるものにしよう、と。クリちゃん気取りの、ナルシスティック自慰行為が発動してしまう。
つまり、その瞬間に仕事ではなく趣味になっているのかもしれない。
そうこうしているうちに、そのどたんばの万能感とやらで書いたシナリオも、今度は予算にハマるのか、どうなんだ、ということになっていたりする。恐ろしい話だ。

これはあくまで僕の場合なのだが、映像制作は、「仕事」としては成り立っていない。とくに、僕のように専門技術的な制作への関わり方でなく、プリプロ~現場~ポスプロまで全てに関わって、ナンチャッテ音頭取りをするしかない人間(音頭取りというのは、能力が高い人間がするのではなく、他に何もできないからそうするのだ。現に僕は鈍臭いからそうする他なかった人間でもある)、そういう専門性のない人間ならなおさら。みっちり時間をかけて企画から編集まで考えることを仕事にしても、アルバイト程度に食べていくことができない。それは自分の能力値の見誤りと割り切りの甘さからきている。そしてそれ自体が、仕事として割り切らないことの、自分の中での言い訳にもなっているだろう。熱意という幻にすがっているのだ。実のところ、その熱意とやらはエゴイスティックな見栄・意地・自己顕示欲でもある。というか、それでしかない。非常に悪循環である。苦労した分だけ、報われるべきと勘違いしてしまう依存関係そのものだ。

ここで大人なら、自分の能力と予算などを客観的に見積もり、ドライに考えるということが必要だが、なかなかやっているつもりが難しいのだ。本来、その難しい事を可能とする一握りの人間だけが、プロとしてやっていくべきなのだろう。しかし、自己実現や「やりたい事」などと言う言葉を真に受けてしまった大人子どもが、こうなってしまうのだ。未来の子供たちにはおおいに気を付けてもらいたい。こういう危ないおじさんになっちゃうよ、と。あるいは、そういったドライな見極めもはなからせずに、無理をしつづける人もいるにはいるのかもしれないが、その場合は単なる迷惑なやつで、周りがその人のせいで苦労していることに気づかない、あるいは迷惑を「情熱」と言い換える厚かましい無頓着さまでを備えたビッグベイビーなのだ。しかし、ビッグベイビーは立派でもある。憎まれ役を他の誰でもなく自分自身で引き受けるという正々堂々さを備えているからだ。「あの人は馬鹿だよ」と後ろ指を指されつつやっていく、という度胸がある。それは確かにプロフェッショナルなものだ。僕も、いい加減自分の身の振り方に責任を持たねばならない。人に嫌われたくないし、需要はないが見栄は張りたいという八方美人には、それが非常に難しいのだが。

とりいそぎ、きちっと責任ある仕事として、予算にはまるようリライトせねばならない。それが今できるクリちゃんとしての在り方である。いや、クリリンかもしれない。なんでもいい。

酒井

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