死んだらどうなるのか。永遠に意識が無い、戻らないとはどういうことか。
その想像しようも無い無力さ、そしてそれが確実に訪れる事にゾッとする。
いつか、永遠に何も感じず、その恐怖を他の人と共有することもできなくなる。永遠の無。
だから死後に、もし意識の片鱗でも残っていたり、あるいは変容するとしたら、それほど救いのある想像は無い。
幽霊譚は恐怖より救いがあるものだ。
死後は、何か宇宙の秘密、この世の存在の秘密を感じさせる。絶対に解き明かせない、認知というものを超えた概念。宇宙が「できる」前には何が「あった」のか、「あった」ものはいつ「できた」のか、誰でもいつかは考えたこともない突然足元が無くなったような心細い感覚になるあの考え。
誰でもそれ以来わかっている。「時間」はここにしか無い幻なのだ。
僕らは幻に沿って考える。いや、考えるという過程も、認知という過程も、時間によって行われる。だから、僕らは時間に縛られ、同時に時間によって成り立っている存在だ。
映画もまた、時間によって縛られ、時間によって作られる物語に縛られ、その縛りこそが唯一の武器でもある。
さて、昨今の死後の描写は、この時間などきっと正者の幻だということにどう関係しているだろう。時間の作り出す物語でもって、時間の超越、時間の無い世界を描くのは不可能だし、そもそも「描く」が矛盾してしまう。だが、死後は、確実に時間から解き放たれているはず……。
『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』(2018)はネットフリックスオリジナルドラマシリーズであり、マイク・フラナガンによるものだ。フラナガンは「死後をドラマに取り入れる」という矛盾に興味があるように見え、それがとても面白い。『ミッドナイト・クラブ』(2022)では、小児終末期病棟で、死後の世界の証明をしようとする子供たちを描き、『真夜中のミサ』(2021)での「この世はすべて夢」というクライマックスの演説で心を震わせる。
どれもホラーの皮を被ったファンタジーあるいはミステリードラマであり―いや、むしろホラーというものこそ物語とバッティングするため、実はジャンルではなく、ベースに別のジャンルを敷いた要素なのかもしれないが―この『ホーンティング~』もまた、死をめぐるミステリードラマとなっている。
死後の人は時間を超越し、それが時間に縛られている生者を怖がらせて謎を残し、そして時に癒してくれる。
この「死後は時間を超える」要素は『ア・ゴースト・ストーリー』(2017,デヴィッド・ロウリー)、『プレゼンス 存在』(2024,スティーヴン・ソダーバーグ)でも共通している。
時間を超えた存在が時間に影響して生者に訴えかける、ということ、ましてやストーリーになっていることそれ自体は根本的には矛盾なのだが、それはそもそも僕らは時間によってしか認知できないし、時間そのものである映画という形態をもってして表現できる限界だし、その矛盾で、結局時間というロマンにいきつく足搔きにこそ感動がある。
という気もする。
死は恐ろしい。ただ、恐ろしいと思えなくなることの方が恐ろしい。

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