酒井独り言/『まぼろし天狗』(1962)

『まぼろし天狗』(1962,中川信夫)を観た。
ワクワクの詰まった傑作だが、なぜこのように面白いのだろうか。
一人二役の面白さもあるのだが、まず、言わずもがな空間感覚の楽しさを常に感じることはあるだろう。
中川監督作では同じく空間の面白さは常にある。
前後、左右のみならず、上下の上がったり、下ったり、はたまた落っこちたり、あちらとこちらで物事が起きたり、ここからこちらに逃げたり、隠れたり、切ったりと、とにかく楽しい。

キャラクターも良く、フィクションの中のやくざ者・はぐれ者たちが、私利私欲や愛・金・復讐の目的のためではなく、立ち上がるときならではの「気持ちのよさ」はなんとも言えない。
昨今のリアリズムでは描かれにくい気もするが、現実には、そういった「気持ちのよさ」を行動原理とする人間も世の中にはいるはずで、それが「非現実的」と見られることの貧しさはあるのではないか。
そもそも、フィクションが現実程貧しくて良いわけでもない。その人心の貧しさが「リアリズム」ならば、なんとつまらないことなんだろうか。そう思うと、自分にも刺さるところがある。

全体的な面白さ以外にも、突発的なハッとするほど強度あるカットを撮るのも中川作品ならではだが、それが監督にあるのか、役者にあるのか、スタッフにあるのか、偶然にあるのか、と分析ごっこをしても無意味だしどのみち複合的であり、どれか一つを挙げることは真実ではないだろう。ただ、そういった瞬間を生み出すコミュニケーションを監督が取っていたことは確実ではある。


今作では、冒頭、いきなり老中の見ている庭で、女たちの騎馬戦という、もうブラックジョークな入りから始まるのだが、その途端、一人の女が転がりまわって苦しみだす。と、そこでカットが割れ、今度は室内にの屏風が映り、変わらずうめき声が聞こえてくる。カメラがゆっくりと動くと、屏風の裏に同じように女が転がって苦しんでおり、お偉いさんがたが女をどうするかという話し合いをする。
この妙な繋ぎはいったいなんだろう。観ている最中は、部屋の中に移動するカットは必要だろうか、すべて庭で済ませられるのでは、とも思ったわけだが、しかし物語は中盤から、闇の御前という大ボスは、老中含む役人たちがズルズルベッタリの関係であることが問題となってくる。このためには、部屋にあげた上で女をどう処分するかを話しているというのが、彼らの加害性を強調するには重要であり、そのためにこれがシーンが分かれる必要になっている。
ただ、その繋ぎが、物語内の時間差を感じさせることのない、うめき声、同じアクションで、かつ一旦カメラ内から消えて繋がるのが、何か見ているとハッとさせられる。

その闇の御前の登場シーンも素晴らしく、二人の悪人が外から声をかけるのをロングショットで捉えた画面から、カメラはゆっくり上手に移動していく。すると、奥に怪しげな祭壇めいた舞台が見え、そこは松明が焚かれている以上に、照明でその火を強調する明滅が背景の壁にゆらゆらと当たっている。
その前を、上手から真っ黒な影である車椅子(この時代に!)がゆっくりと現れる。そのカッコよさ。

後半の怒涛のアクションシーンは、まさかのびっくり舞台装置で落下したり、そこからキャラクター設定・物語設定とも有機的に結びついた拳銃を利用して這い上がったり、ピンチの時に倒れる敵と駆け付けたもう一人の主役、奥と手前で行われるアクションと、楽しさの畳みかけ。そして、なんとも切なくあっけない死。
「私……夢を見ているんだ……あぁ、良い夢……」

先日ある方と、なぜ昨今の現実っぽい画面が、生々しく見えず、明らかに作り物の作品にはフィクションならではの生々とした感覚があるのかという話題を話していた際、レイ・ハリーハウゼンがCGについて、リアルなCGより、特撮には夢の手触りがあると話していたことを言っていた。
そこには何か真実があるように思う。フィルムルックや、モノクロ、そういったことにもつながってくる何か。
しかし、画質などといった撮影・投影機材の問題とするのは懐古趣味にしかならないし、底に面白さの本質があるわけではない。
いやむしろ、それは自由度と枷というものが大きく関係しているのではないか、そんなことを考えてしまう。
不自由と枷こそが、何か想像力と創造性に重要な役割を果たしているのではないか。スーファミ時代のRPGが一番刺さったのと、近いかもしれない。


それっぽい嘘か、生々しいフィクションか。後者ゆえのワクワクはどのように作るのだろうか。
まぼろし天狗

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